江戸時代中期、『三国通覧図説』『海国兵談』等の書物を遺して、危険思想の持ち主と言われ散々弾圧された林子平の逸話を紹介する。彼は、日本各地を放浪し見聞を広めていったが、長崎に滞在中の話がある。 彼はあるとき、大きな騒動に巻き込まれた。鎖国していた日本と貿易をしていた清国の唐人が、日本の対応に不満を持ったため、暴動を始め、唐人屋敷に立てこもる事件を起こした。そこで林子平は、唐人が立てこもっていた建物の門にかかった鍵を、所持していた日本刀で真っ二つに斬り、建物に潜入し、青竜万を一万両断に仕留めたという。このような林子平の活躍によって暴動は静まり、彼の武勇伝は一瞬のうちに長崎中の町や村に広まった。そのような彼の評判を聞き駆けつけたオランダの商館長が林子平を自宅に招待して言い放った。「噂は当てにならないものであるが、林殿の活動も、かなり誇張されているようだ。中年の背が低い日本人が、門の鍵を叩き斬って、青竜万を二つに叩き壊したなどは絶対にありえない。デマが流されているようだ」と。 それを聞いた子平は、ヘイトの家に保存されていた洋刀を七本も束ね、とても簡単に持っていた刀で両断してみせた。真実は分からないが、日本刀の威力を言い伝える豪快なエピソードです。
このように、武士がもつ日本刀は、サムライの命を守る重要なものです。「世界で一番強い刃物」とはいっても、実際自分が持つ日本刀がどの程度斬ることができるのか、気になります。実際に戦いの場に遭遇し、その斬れ味の悪さに気付いてしまってはもう遅い。敵の刃に斬り倒されて、一瞬で命を落としてしまう。 現代では日本刀で敵と斬り合うことはまずないが、それでも「日本刀の命」でもある斬れ味は、その品質に影響を及ぼすうえでの最重要事項であり、巻藁や畳、青竹などを使用して「試し斬り」が実施される。そして、戦争の道具として日本刀が利用されていた当時は、サムライはその斬れ味に非常な関心を寄せていた。このような背景から幾つかの名刀をみて見ます。
安綱の太刀
長さ二尺二寸九分あり、反りは七分、鎬(しのぎ)造りで反りが高く、気品高い太刀姿が特徴。銘は中心の尻寄りに「安綱」と大振りで雅味ある二文字が掘られている。櫨目はきりで、鍛え小板目の上に大板目にしっかりと混じる。刃文は直刃のたれ心で小乱れがまじっている。本刀は極めて健全な作りで、総体の作風が見た目にも無技巧な作風で古調があふれている名宝である。
古備前正恒の太刀
長さ二尺三寸七分で反り七分二厘、鎬造りとなっている。鍛え板目肌、刃文はもと小乱れに丁子が混じり、物打ち辺りは直刃仕立てとなっており、小乱れが混じり、小沸えもよくついて、匂い足、葉盛んに働く。中心の櫨目は勝手が下がった状態で、磨きあげられ、その上中心尻に「正恒」と銘を見ることができる。本刀は佐竹家からの伝来で、佐竹義重の佩刀と言われる。総体の作風は大変古式ゆかしく、正恒の作品の中でも時代が上がった一振りとなっている。
源兵衛祐定の刀
備前国住長船源兵衛尉祐定作の天正六年八月上吉、長さは二尺二寸四分五厘あり、反りは六分五厘の鎬造りである。中心で鑢目勝手が下がる。鍛え小板目小杢が混じる。刃文互ノ目丁子の乱れ、中ほどには皆焼きとなっており華麗な仕上がりである。源兵衛祐定は同名の数多くの祐定中では与三左衛門尉、彦兵衛尉などと共に華麗で有名である。同名が二代あり、本作の同様な小振りで整った銘字が二代ある。いにしえより切れ味がよいところから武将が重用した。
関兼常の刀
長さ二尺三寸二分で反りが六分五厘の鎬造り。鍛え板目、刃文互ノ目丁子乱れ。鑢目は鷹の羽である。兼常は末関を代表した刀工の一人であった。大和手掻の系統といわれており、同銘で数代あった。本作は大永頃の兼常として、応永備前を彷彿とさせる刃文、錬れた地金からは、一時代上がったようにみえる。本刀は砥当たりから鑑みても、刃味が極めて優れており、質実兼備の傑作として名高い。
若州冬広の刀
若州住冬広作八幡大菩薩による天正八年二月吉日の棟に十大長さ二尺四寸六分五厘あり、反り八分で鎬造り。身幅広く先反りの豪刀である。鍛え杢目、刃文のたれに互ノ目が混じる。表裏には丸留の棒樋と添樋の彫刻が見られる。冬広の先祖は相州広次の子であり、以下幕末まで一門連綿と続いており、またその門葉も各地で栄えた鍛冶の名門として名高い。本工の位階は一流とは言い難いが、本作は地刃が優れており、南北朝期の名作として傑作である。
宝寿の太刀
長さ二尺五寸六分で反り一寸二分五厘の鎬造りである。菖蒲が中心で、わずかに区送り、鑢目はきりである。鍛えは崩れて掃けている。表裏に棒樋を掻け流している。元来奥州で生産されたものは最も古く、古剣書には舞草一類、月山など名前で平安期の刀工名が多く見られる。しかし現在残っている品は皆無となっている。現在一般に見ることができるものは室町時代以降の宝寿で、月山一派のものだが、本刀は鎌倉時代中期以前のもので、その洗練された作風によって、数少ない奥州を代表する名刀であり、たいへん貴重な資料である。
三条吉家の太刀
長さ二尺四寸六分五厘で反りは八分、鎬造りである。少し磨上がって見えるが、反りが高い優雅な太刀姿である。鍛えは小板目肌、刃文小乱れに丁子が混じっている。吉家は山城を代表する名工として有名で、平安末期から鎌倉初期の時代と考えられている。本刀はとても健全なつくりで、京物で気品あふれた作風を存分に発揮した代表作である。因みに、これは徳川六代将軍家宣より島津吉貴が拝領したという。
延寿国信の太刀
長さ二尺四寸八分で反りが九分八厘の鎬造り。鍛え小杢目、刃文中直刃。表裏に丸留の棒樋の彫刻が見て取れる。延寿系図によれば、国信は歴応の国村の三男に生まれ、菊池に住むとされる。延寿一派の作風は、その系統上において全て京風が強く現れており、優美で上品な作刀が多く残されている。また「延寿」というのは、めでたい名前であるため、贈刀用としても作られた。本刀は胸のすくような剛快な作風として有名で、この一派としては異例な一振りとなっている。健全無比、同派中での傑出した名作として名高い。
孫六兼元の刀
長さ二尺三寸五分、反り六分の鎬造り。本体幅が広く覇気にあふれた造り込みとなっている。鍛え杢目、刃文三本杉乱れ。生ぶ中心でわずかに区送り。鑢目鷹の羽、地刃ともに健全な造りで質実剛健な孫六の代表作となっている。美濃ものは、量産可能な鍛法と切れ味の良さなどから広く武人が使用した。孫六は三本杉乱れの創始者として有名で、切れ味抜群の最上大業物とされており、和泉守兼定と一緒に美濃の真価を世に披露した功労者としても有名。
長船康光の太刀
長さ二尺四寸五分あり、反りは九分で鎬造りである。鍛え杢目に板目が混じり、刃文互ノ目丁子乱れがある。表に三鈷剣と梵字が彫ってあり、裏に丸留の棒樋と備前彫り独特の彫刻がある。生ぶ中心で、わずかに区送り鑢目は筋違いとなっている。応永備前は堅実な作風が特長であるが、本刀は堅実さに加えて華麗な作風となっている。室町時代を代表する最高の名工の一振りで名高い。鍋島家の伝来とも言われている。
一文字吉房の太刀
長さ二尺二寸六分で反りが七分の鎬造り。鍛え杢目に流れ板目まじり、刃文重花丁子となっている。鑢目は筋違いで佩き表の中心尻に「吉房」の二字銘が彫ってある。吉房は後鳥羽院の御番鍛冶として、福岡一文字一派を代表する丁子刃の名人であった。この刀も定評に沿った見事な出来栄えで磨き上げられており、さらに生姿の豪壮さを秘めた造り込みで、いわゆる絢爛華麗な一振りとして仕上がっている。
来国光の太刀
長さ二尺三寸七分、反り八分で鎬造り。鍛え小板目肌、刃文浅く広直刃調が特徴で、小丁子、小乱れまじり。国光は来国俊の息子として、鎌倉時代末期に生存した名匠として有名である。本刀は全体に相州風がみられ、国光が造った後期の作中において傑作として名高い。島津家の記録には、「寛永七年四月十八日、家光公桜田御屋敷へ御成之節、光久公御拝領」と記されている。
名物亀貞宗の刀
長さは二尺三寸四分五厘あり、反りは八分余で鎬造りとなっている。鍛え板目肌、刃文のたれ調に小乱れまじりで、表裏に二筋樋の彫刻が見られ、指表は掻き通しである。中心は大磨上げ、鑢目は筋違いとなっている。本刀は由緒正しき徳川家伝来の国宝となっており、中心尻の亀甲の毛彫りの形状から亀甲貞宗と呼ばれる。刃文は穏やかな気品高い作品であるが、強く冴えた見事な地金と、働きが多い刃中の変化に烈しい気迫が漲っており、まさに同作中の代表作として有名である。
西蓮の短刀
長さ九寸二分、平造りで、浅い内反りと真の棟が特徴で、中心はわずかに区送りとなっている。鍛えは板目肌流れ、刃文小さくのたれ心に乱れる。表に素剣、裏に護摩箸が彫ってある。本工は初期は国吉、のちに法師となって西蓮と称した。正宗十哲の一人左文字の祖父といわれている。本作品には地金が九州物の特色を示しているが、刃文、彫刻などは、相州の様式が強く、左殿の結びつきを首肯させる資料として貴重であり、同作中で特に傑出した短刀である。
伯州広賀の刀
伯耆国住人の見田五郎左衛門尉広賀の刀として有名。長さは二尺三寸四分で反り七分、鎬造りで鍛え小板目、刃文互ノ目丁子の乱れ。中心は生ぶ、鑢目は勝手下がりとなっている。広賀には見田派、道祖派の二派がかつて存在し、双方共に数代の新刀期に及んでいる。そのような状況で、見田五郎左衛門尉が有名である。本作は末備前の一流工と比較しても見劣りしない傑作となっており、すべてが焼きがかった刃文など、全体に末相州風を見て取れ、所伝を首肯させる一振りとなっている。
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