後鳥羽院(後鳥羽天皇)は、刀剣に熱を入れていた上皇として有名です。上皇になるとすぐに、名工と言われていた刀鍛冶を召し出され、さまざまな刀を打たせる一方で、自分も鍛えるという熱中ぶりでした。このとき、鍛刀の師であったのが、京粟田口の藤林藤次郎久国(とうじろうひさくに)であり、毎月召された刀工もまた有名な顔ぶれであったそうです。後鳥羽院は弱冠23歳のときに、独裁的院政を開始したほどの大物でした。さまざまな場所に大荘園を所有しており、豪快さでも有名な人物と言われています。所有している中でも、水無瀬川や天王山などには、清水の湧く井戸があったそうです。これは鍛刀を好んでいる上皇にとっては、最高のロケーションであったと言えます。当然ながらここに鍛冶場が作られて、自ら刀を打ちました。上皇自ら作られた太刀は「菊作」「菊の御作り」「御所焼」などと呼ばれて大切にされてきました。これらの刀は北面や西面の武士たちに賜り、士気を高めたと言われていますが、その後に上皇の運命は変わっていきます。承久3年になると、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の北条義時討伐の院宣を下したのです。しかし結果は敗北、上皇は隠岐の島に流されてしまい、享年60歳でこの世を去られるまでの19年を孤島で過ごされたとの記録があります。後鳥羽上皇は悲劇の人としても語られていますが、上皇が本領を発揮されたのは、この島に来てからでした。古里を懐かしまれる一方で、孤島の隠岐の配所にも鍛冶場を作って、御番鍛冶を召し出されたのです。後鳥羽上皇は、当時の師であった京都粟田口の弟や、その長兄を召されていきました。これらを特に、「隠岐国番鍛冶」と称されていることもあるそうです。